小学校低学年で経験した「好きな子を言い合ってみよう!」という出来事。
その場をやり過ごすだけの些細な嘘すらつくこともできないほど、「好きな人」を想像できませんでした。
時間としては一瞬なのですが、頭の中では色々な情報が逡巡していました。
- 「好きな子がいないこと」
- 「好きな子ができなことがないこと」
- 「好きという気持ち・感情が自身にまだ湧いたことがないこと」
- 「そもそも好きという気持ち・感情がわからないこと」
- 「家族の男性が回答にならないことは理解できていること」
- 「嘘をつかなければいけないが、何を言ったら良いかサッパリわからなかったこと」
皆さんどうやってお好きになっているのですか?と思うくらいです。

小学校低学年で、自身がアロマンティック・アセクシャル自認するための険しい山のふもとに立ちました。
ふとした疑問をなんとなく横に置きつつ、女の子の成長は早いもので、本人の心の成長も待たず身体的にすくすく育っていきます。
自身の体の変化に戸惑うことが多い時期ですね。
女性への変化が少し煩わしくなってきた筆者




体の物理的な成長だけは周囲の女の子より早くありました。身長順に並ぶと、聞かずもがな。お前が一番でかい。
身長を測る必要なし、頭一つ分(言い過ぎた、半分?)は他の女子児童よりも飛び出ていました。
大人の自身が思うと「いいやんそれで」なのですが、当時の筆者はそう思うことも叶わず、本当に本当に嫌でした、周りより身長が高いこと。
意図せずどんどん成長していく体
大人になった今としては、それがそんなになぜ嫌だったの?と思うばかりですが、小学校4年生くらいで160cmほどあった筆者はこんなことが嫌で嫌でしかたありませんでした。
- 背の高い順で並び、列を組んで行進の練習とかすると思います。ほぼほぼ、筆者が最後列で1人・・・余っている、妙に目立っているようで、すごく恥ずかしい。そして寂しい。
- 女子の中で1番背が高いのが目に見えているので、筆者以外の女子が横1列に並んで、筆者が背の高い順に並べ替える・・・わかってるけど、1回は私の身長も確認してよ。
本当に行進の練習は苦痛でしかなく、基本的に猫背で少しでも身長を低く見せようと頑張り、成長を止めたくて、止めたくて仕方ありませんでした。小柄な子が羨ましかったです。


願いかなって、身長がそれ以上伸びることはありませんでした。おバカさん・・・
当時のこのことを話すと、母が「アンタは自分で自分の成長を止めた」というくらいなので、小学4年生にしては高めのその身長が本当に嫌で嫌で仕方なかったのでしょう。
女性としての成長が始まる
人より成長が早めということは「女性としての成長」も人より早くありました。
小学校4年生でした。かなり早い部類。相談できる/察してくれる友達は誰もいません。
体育の時間と時期が重なると嫌でした、、、まだ慣れずに気持ち悪かったです。
余談ですが、今でも覚えています。体育の時間とタイミングが重なった時、体育の内容は縄跳びしながら、前へ進めでした。


4年生なので、先生も個別に相談しない限り、なかなか配慮が難しい年頃ですね。
小学校4年生で迎えた友人は、今も昔も私以外に1人しか知りませんので、本当に早めの訪れでした。
クラスにも同じような状態の子はいたかもしれません。
しかし「隠した方がよいこと」「恥ずかしいこと」という感じ方は、今でもある「あるある」ですね。
分かち合う同世代もいない、いたとしても言うこと自体がタブー視されている、誰にも言えない辛さとストレス。
周りの子が何も知らずにのほほんと生きているように見えてもしまい、小学校4年生の筆者にとっては、
自身が劣っている?自身だけが煩わしさに耐えている?と感じ「女性としての成長」はかなり大きいストレスとなりました。
女の子は男の子に負けてしまうのか?




女性として成長し始め、嫌でも自身が女性であるということ、を自覚しました。
小学校低学年くらいですと、男の子との身体的な差というものは少なめかもしれません。
性別の差というよりは、個体的な差の方が大きいのかなと。
逆に、女の子の方が成長は早めですので、身長では男の子より大きめに見える女子が多いのかな?
男の子と女の子は全てにおいて対等であるというか、差を感じていなかったはずのところに突然やってきた、女性としての成長。
体ばかり大きくなっているだけで、心の成長や、ましてその方面の知識を大人が教える前に訪れた、月一回の煩わしさは、
小学校4年生の筆者へ、女性という生き物の身体的なネガティブさや、ディスアドバンテージなイメージを深く植え付けました。
女性という生き物の受け入れられなかった所
体は大人になりかけていても、知識・心はまだまだお子さまの小学校4年生。
しかも、負けん気だけは人10倍、でも競っている感を感情として表には出したくない、妙に自尊心の高いお子さまです。
恐ろしいほどに負けん気が強いけど、その負けん気を表に出したらかっこ悪いと思っているプライドの高さを兼ねそろえたお子さまには、女性という生き物の仕組みがこんな感じに見えていました。


女性は女性というだけで、無用な不利益・苦痛・煩わしさを自身の意思と反して持たされた、哀れ?弱い?存在。でも私は哀れでも、情けなくも、弱くもない!今すぐ取り出したい!
大人の筆者が簡単に言うのであれば、「突然今日から女の子ではなく女性!と言われてびっくりした。」になると思いますが、
小学校4年生の筆者に「びっくりしたんやない!」と怒られそうです。
- 男の子と女の子の差はない。もうひとつ突っ込んで言うと、身体的に女の子は男の子に負けるのは認めたくない。
- なぜ、力は男の子の方が強いのか。なぜ足は男の子の方が速いのか。なぜ女の子はこうも男の子に負けてしまうのか、弱いのか、守られる方の存在なのか。
- いや、そんなことはないはず・・・でも、男の子の方が力も強く、足も速いのはわかっている。
- 女に生まれたというだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。なぜ男の子は、男の子というだけで、この煩わしさを体験しなくてもいいのか。
子供には受け入れがたいことだらけで、意見もちらかっています。
特に月一の煩わしさについては、男の子にはない現象で、女の子は5-7日間、我慢しなければならない期間が月に1回はある。
思うように、自由にできない期間がある。これは身体的に、男の子に負けたことになるのではないか。
その当時はそう思いました。


望んで女の子として生まれたわけではないのに、なぜ女の子というだけで、こんなに面倒な体を強いられなければならないのか。


このままだと女性というだけで、何か負けてしまっているような気がする。
大人の筆者が男性の方が人生は楽である、と言っているわけでは決してありません。
あくまで自身の体の変化を受け入れられない、子供の筆者が勝手に感じていたことですが、似た様な煩わしさを覚える若い女の子もいるかもしれませんね。
からだの性とこころの性 誤解を生まないために
当時の筆者は女性であることの煩わしさから「男の子として生まれることができていたら・・・」と思うことも少なくありませんでした。
男の子だったら許されること、出来ることの方が多く、かつ魅力的に思えて、男の子がとても羨ましく見えました。
男の子だったら許されること、出来ること(=女の子だったら不自然と言われてしまったり、違う可能性を示唆されてしまうこと)を言葉にするのも、言葉にしたところでなのですが・・・


あくまで筆者が4年生の頃の話であること、そして小学生の個人の感覚の話です。
- 月一の煩わしさを体験しなくて良い
→私は二分の一の確率に負けてしまった。 - 足を広げて座る
→なぜ女の子は足を閉じて座ると言われるのか?足を広げて座るのが行儀が悪いとするなら、そこに性別は関係ないのでは?(スカートで足広げて座ってもOkとは思わないけど) - 少しやんちゃな言葉遣い
→女の子だからおしとやかで優しい言葉遣いをするべき?男の子だって、優しい言葉遣いの方が良いのでは?そこに性別の差はあるの? - 青や黒の色を好む
→性別によって、好ましいと言われる色ってどういう意味?女の子のランドセルは赤?戦隊ものの主人公は男性で赤色では?大人になると色を選べるようになるの? - ズボンしかはかない
→女の子でスカート好きならそうすればよいし、嫌ならズボンで良い。スカートも穿いたら?可愛いよ?それはあなたの感想ですよね? - 職業選択(消防士・警察官・パイロット・大学教員・スポーツ選手等)
→純粋に腕力が必要な職業が存在する、と認識はしているが、とても歯痒い。でも頭を使う職業だってあるけど、大学のえらい先生って言われる人、男性ばかりよね?で、そして、なんで女性の制服と男性の制服って違うの?なぜスカート?丸い帽子? - 身体能力は女性以上
→なーぜー女性は男性より弱い作りになっているのかー
当時の思いのたけを綴りましたが、女性はなぜ不利な条件を強いられて生まれたのか、生きていかなければならないのか、当時の筆者には到底受け入れられません。
しかし、どれだけ男の子として生まれた方が良いと思っていても、筆者の体は女の子で心も女の子でした。
身体的な性と心の性は一致していて、そこに違和感はありませんでした。
疑問を覚えたこともありませんでしたし、本当に変えたいと思ってもいません。今もそうです。
生物学的に女性として生まれ、女性の心を持っていることに対して疑問や不自然さを覚えることはなく、
女性として生きていくのだと思っていた=男性になろうとは思わなかったので、余計に男性と女性の差を見出してたのでしょう。
女性に対してネガティブなイメージを抱いておきながら、女性とは?女性であること、女性のステレオタイプに捕らわれていたのだと思います。
まとめ




心も体も女の子で間違いありませんが、身体的な成長が一気に突然押し寄せて変化を受け入れられず、女性であるということに、非常に強い劣等感を覚えていました。
女性でありながら、女性のステレオタイプなイメージに捕らわれ、女性への嫌悪やら劣等感やらに悩まされていた小学校4年生の筆者です。
自分が心を乱しているのを見せるのも無様と思っていたので、相談したり気持ちを伝えたりすることを誰にもしませんでし、できませんでした。
おかげさまで、凝り固まった考えの小4が完成します。
こんな考えが大きく影響して、昔は女の子したものが大変好きでしたが、嫌煙する対象になってしまいました。
恐らく少なくとも中学校卒業くらいまでは女の子らしさから、自主的に遠ざかるようになります。