今回の記事で書こうと思っていることは「アロマンティック・アセクシャルと克服」についてです。
筆者が絶賛思い悩んでいた頃よりは、はるかに多くの情報を手に入れられるようになった昨今。

手に入る情報も飛躍的に増えたことは良いのですが、惑わされたり、余計考えさせられる情報も、より目にするようにもなりました。
当事者なのか・大事な相手なのか・友人なのか・家族なのか、検索主は色々でしょうし、
アセクシャル単体で調べようとしたのか、アセクシャル=アロマンティック・アセクシャルを調べようとしたのもか不明ですが、
「アセクシャル+克服」も検索ワードの一つとしてよく見かけます。
「アセクシャル(=アロマンティック・アセクシャル)+克服」、自分でも考えてみたいと思ったことと、色んな意味で我がブログのトピックとして良いのではと思い、書き綴る次第です。
アロマンティック・アセクシャルを克服、何とも興味深いと感じています。

確かに、お悩みは「解決」したり「克服」したくなるのも自然な流れです。
まずは、筆者自身について考えてみたいと思います。
誰も好きになった事がない悩み、一緒に考えます 本当に好きな人に出会っていないだけ、とは思えない方へ筆者はアロマンティック・アセクシャルを克服できるのか!?
最初から突然ですが、まずは「自身は克服できるのか否か!?」についての、筆者の答えです。

答えは、無理です。間違いなく無理です。無理としか思えません。
- 幾度となく(恋愛的に)人を好きになれないか試しました。
- 幾度となく恋愛感情を抱けるよう気持ちを持っていこうとしました。
- お付き合いしていた男性へ性的な関心を向けられるよう(変な言い方ですね。。)と気分を持っていこうとしました。
全て虚しい努力で終了でした。

まだ、理想の相手に出会っていないだけとおっしゃる方は、ぜひこちらの記事をご覧ください。
- 「理想の相手に会っていないだけだよ」
- 「本当に好きな人に会えていないだけだよ」
- 「まだ本当に人を好きになったことがないだけだよ」
等々、アロマンティック・アセクシャルへの禁句かもしれません。
この言葉たちはもうこの人生では聞きたくありません。
また、文字で目にするだけでも筆者はお腹一杯になりかけています。


別に言われても良いけど、というお考えの方も目にする機会があり、少しびっくりしました。
え?いいの?まじで?あたしゃ嫌よ!?という気持ちが心に居座っている筆者なので驚きました。
言われても良い理由ってなんだろう?と少し考えました。
相当筆者の偏った想像なので言葉にするか迷ったのですが、割合摩擦少な目で自認に至ることができたのかな?自認に至るまで、比較的早かったのかな?それとも許容できる範囲が海のように広いの?
ロマンティック(=他者に対して恋愛感情を抱く人)の皆さんが生きる世界に自身も生きていると誤認して、もがいていた筆者の「羨ましいな~」という、ただの嫉妬です。
いずれにしても、アロマンティック・アセクシャルを克服するのは、筆者にとっては無理な事柄です。
もうこれ以上無駄な体力は使いたくありませんし、もう残されてもいません。回復もしていませんし、しないでしょう。
筆者が克服できない理由


筆者がなぜ自身の克服は無理だと声高に言うのか、もう少し書きたいと思います。
「答えは、無理です。間違いなく無理です。無理としか思えません。」なんて非常に断定的に書きましたが、でもその通りなのでございます。
無理無理言わずに、言葉を変えてお伝えするなら下記の通りです。


アロマンティック・アセクシャルを克服、これは、そもそも克服するものではなかった。克服を考えたこと自体が間違いだった。
例えば、苦手だった人参が大人になって食べられるようになった、出来なかった逆上がりを練習を重ねたことで出来るようになった、
という具合に自身/周囲の努力や時間の経過でどうにかなるものではないと自覚/理解しました。
自力で空を飛べと言われても人間にはできません。
人間に翼はついていないので自身の力だけで空を飛ぶことはできないからです。
自力で空を飛べない事は、人間にとって自身の努力や、時間の経過で解決できるものでは勿論ありません。
自力で飛行と同じくらい筆者にとっては、恋愛感情を抱いたり、性的に惹かれる事は無理なことです。
自身の努力や、時間が経過したとしても、無理なことです。
アロマンティック・アセクシャルは筆者にとって克服する対象にすら入らないもので、アロマンティック・アセクシャルを克服するには生まれ変わる必要があると思っているものです。
空を自力で飛ぶことは克服する対象ではなく、自力で飛ぶためには羽が体についておりかつ飛べる生き物へ生まれ変わる必要がありますよね。


こんな心持のまま無理に克服しようとすれば、自分も周囲の方も傷つけると、これまでの経験で理解しました。もう辛いのはご免こうむります。
筆者が克服しようとした理由


そしてふと考えました、なぜ克服しようと思ったのかと。
全員が全員ではないことは承知ですが、まずこう考えたからです。
人生の通常ルート(=普通こんな人生辿っていくのでは?)
- 大よその方は疑問を持たず、当たり前に恋愛をする。
- 大よその方は出会いもあれば別れもあり、悲しいことや楽しいことを経験し、各々道のりは異なる行きつく先は結婚。←これ、人生の通常ルート。
- 大よその方は子供をもうけたりする。家族が増える。守るものが増える。←これ、人生の通常ルート。
- 楽しいこと、辛いこと、幸せなこと、後悔したこと、色々あるけど、家族として守り守られ生きていく。←これ、人生の通常ルート。
人生の通常ルート、通常なら誰しも疑問を持たずにこの流れに乗るかと思います。
昨今、色々な生き方があるとされていても、大よその方は大体このルートに乗るのではないかとも思います。
筆者だって自認前はこの流れに乗ること、周囲の人が乗ることへ、疑問を感じたことはありません。


でも自身については、流れに乗ることが、なぜか難しく感じてしまった。


なぜか自身については、違和感や抵抗感、嫌煙する気持ちが多くあった。
難しく感じても、なんか違和感があったとしても、人類の人生の通常ルートがおかしいこととは思わない状態。
おかしくないはずなのに自分がそのルートに乗れない場合は、ルートに乗られるよう少しは自分で改善・努力(=克服)しなければ、と思うのも変なことではないと思います。
- 人生の通常ルートに「恋愛」の段階でつまづきや疑問、違和感を覚えている自分は、周りと比べて、あからさまに少数派で、おかしい状態。
- 経験不足が原因で考え方が凝り固まっているなら、克服できるはず。経験を重ねたら、いつか好きな人ができて克服できるはず。
このような感じで自分を変えていかなければ!と思い、婚活してみたり友人から紹介を受けて付き合ってみたりしたのですが、結果は想像にたやすく、全戦全敗。
残ったのは、お相手への申し訳なさと、自分のはち切れんばかりのストレスと失望でした。
「自身の指向」はそもそも克服するべきものか?


結局、筆者は克服を断念した側です。
そもそも克服しようと考える自体、考えるだけ無駄だった。
なぜなら、自身/周囲の努力や時間の経過でどうにかなるものではないと自覚/理解したからです。
そんな筆者は「克服」という言葉を使うのも若干抵抗があるのですが「克服」できた方がもしいらっしゃるのであれば、使わざるを得ないですね。(実例は知りません)
また克服できるのなら、克服できた方が人類のメインストリームに乗ることができるので、良いのかとも感じます。
悩みを解消できたことになりますからね。
「自身の指向」は無理に克服するものではない


しかし、大事なのは苦しんだり悩んだりしたうえで、克服には至らなかった方。
筆者は先ほど「克服」という言葉を使うのも若干抵抗があると言いました。
なぜなら、アロマンティック・アセクシャルはそもそも克服するものではない、と筆者は感じているからです。
そもそも「自身の指向」というものは「無理に克服するべきものではない」と思うからです。
(前述したように「克服」できたとして人生の通常ルートに進めたら、それにこしたことはありません。羨ましい・・・)
なぜ、無理克服するべきものではないと言うのか理由はこの通りです。
そして毎回、同性愛者の方を例として引き合いに出して恐縮なのですが、、、


同性愛者の方に言いますか?
同性愛者の皆さん、同性愛を克服して異性愛者となり、人類の人生の通常ルートへ進みましょう!
本当にこんなこと言いますか?言えますか?


アロマンティック・アセクシャルの方には言うのでしょうか?
アロマンティック・アセクシャルの皆さん、アロマンティック・アセクシャルを克服して異性愛者・人を愛せる人となり、人類の人生の通常ルートへ進みましょう!
アロマンティック・アセクシャルと同性愛、何が違うのでしょうか?
筆者は同性愛は克服するものではないと思います。
LGBTの認知度も近年上昇し、理解度も昔に比べ上がりました。
今現在、同性が好きな方について世の中の人は「その方はそういう方なんだ」とおおよそが言うのではないかと思います。
言いたいことは何かと言うと「同性愛」が「克服すべきもの」として扱われていないことです。
指向そのものは勿論異なりますが、同じセクシャルマイノリティーとして、アロマンティック・アセクシャルが克服すべきものとして考えられることには、疑問があります。


でも、アロマンティック・アセクシャルの方が克服しようとしているのなら、勿論止めはしません。個人の判断と希望が最優先ですからね。
同性愛と同じように、克服するものではない(できたら良いけどね)と思っております。
- あくまで、筆者が克服について考えたことと、アセクシャル+克服という検索ワードを見て、本記事は書いております。
- アロマンティック・アセクシャルは克服できる/するべきだ等と、そんな記事があったわけではありません。
検索ワードとして挙がっているくらいですから、検索している人数は一定程度いるのでしょうね。
克服したいと悩んでいる方が多いのか、お知り合いがアロマンティック・アセクシャルで克服してもらうにはと思われている方が多いのか・・・
自身の指向について、もし相談を受けたら
アロマンティック・アセクシャルである筆者は、もし「人を好きになったことがない」や「誰にも性的な関心を抱けない」と「悩んでいる知り合い」がいたら・・・


「アロマンティック」と「アセクシャル」って言葉、自分で検索してみたら?とだけ、まずは言うのかなと思います。
そして、例えば「知り合いがアロマンティック・アセクシャルだ/かもしれないと相談を受けた方」がいらっしゃれば・・・


筆者のように克服しようもない、この上なく無理だと感じている方が思い切って打ち明けた場合もあるかと思います。
上からな発言で大変恐縮ですが、複数回にわたる克服のお薦め(まだ好きになった人がいないだけだよ系統の励まし)は関係性が崩れる場合もありますので、ご注意下さいませ。
アロマンティック・アセクシャルかもと相談を受けるくらいですから親しい間柄なとかと察します。
でも、アロマンティックやアセクシャルの存在を知らずに相談にのるなんて、とても難しいですよね。
ただ、いくら自身の世界にはない/あり得ない相談内容(=例えば恋愛感情がない等)だったとしても、
真剣に悩んでいる相手の状態を否定したり・それはおかしい状態だと言わないことは、人としての配慮なのかと思います。
まとめ


アロマンティック・アセクシャルは少数派の中でも少なめの方、まだまだ世の中にその存在は浸透していません。
ドラマで取り上げられて、こちらを期に自認に至った・存在を知ったという方が増えたと思いますが、当事者や悩んでいる方以外は、例にもれず記憶が薄れていくものだと思います。


恋愛感情がない、なんて相談を受けるうえで、あまり想定しない内容でしょう。
「アロマンティック・アセクシャル自認後の方」や「ほぼ自身がそうであると思っている方」がもしいらっしゃいましたら・・・克服云々については、それぞれ意見や考えが異なるかと思ううえで・・・


筆者は自身については「克服する必要がない(=自分があまりにもおかしいと思えて克服しようと出来る努力は全てした、でも徒労に終わった)」。


個人としては、自身の経験より克服するものではないと考えているが、勿論、克服を妨げることはしない。


「克服」という言葉が適当かは甚だ疑問だが、無理せずがんばれ、と考えます。
克服したい気持ちは良く分かるのですが、アロマンティック・アセクシャルの性質があった場合、克服する行為はどうしても自身の心を削ることになります。
認めたくなかったり、仮の立ち位置としてアロマンティック・アセクシャルを選択したとしても、現在アロマンティック・アセクシャルを自認していたとしても、
誰かを好きになってはいけないなんてありません。結果・将来、人を好きになっても、人を好きになれても勿論良いのです。
(その事実を「克服」と呼ぶなら、他者に押し付けない限り、それでも良いと思います)
時には、あまり使いたくない言葉ですが「諦め」という「自認」を選択するのもあり得るでしょう。
だから、アロマンティック・アセクシャルを今すぐ克服しようと躍起にならないように、本当に無理だけはしないようにと思います。