こちらの記事はカテゴリー体験談一覧、最初の記事。
こちらのカテゴリーでは、悩みや考えなどを書いていくのではなく、筆者の人生について書いて参ります。

筆者がどのような過程や悩み、疑問を経てアロマンティック・アセクシャルと自認したか記します。

お悩み解決のような記事ではありませんが、ご覧いただいている方のご体験と照らし合わせて頂けたらと思います。
筆者3○年、生きておりますので、カテゴリーを分けたいと思います。
この記事のカテゴリーは「体験談一覧」の「幼稚園~少学3年 (自覚なし)」となりまして、幼少期の筆者について、大人の筆者が考察しております。

そして、この記事は筆者の幼稚園時代のお話。どんな子供であったか考えてまいります。
筆者が生れた頃の世の中の考え方
証明はできませんが、筆者は生まれたその時からアロマンティック・アセクシャルの要素を大いに持って生まれた、もしくはアロマンティック・アセクシャルとして生まれたと思っております。
現在アロマンティック・アセクシャルを自認して、その状態を受け入れているからこそ、言えることではありますが、
幼少期の頃も含めた「過去の自身の感情や行動や感覚や考え方」が全て「アロマンティック・アセクシャルだったから」で綺麗に説明がつけられるような気がします。
お話した通り、自認後に過去を顧みた結果言えることで、筆者が幼少期の頃は当たり前ですがアセクシャルやアロマンックという単語は知りません。

当時、LGBTって言葉あったのかな?恐らくないと思うのですが・・・
しっかり調べたわけではありませんが、LGBTという単語が言葉として存在していたとしても、筆者の幼少期はほぼ間違いなく、
世の中のほとんどの人は知らない・認知されていない単語であると思います。
同性愛などという言葉は存在していて、言葉とその方々の存在を世の中の人は知っていたくらい、と思っています。
- しかし、話題として口に出すようなことは避けるべきこととして捉えられていたと察します。
- 特に筆者の祖父母世代から言わせると、口に出すものではない、出してはいけないと。
- 口に出してはいけない理由はありますが、逆にとても言えるような理由ではありません。
- 当事者の方々も今とは比べ物にならないくらい、辛い気持ちで生活されていたのでしょう。

多様性なんてなかった・・・
アセクシャルやアロマンティックはもちろんのこと、バイセクシャルやトランスジェンダーという言葉も知らない人が圧倒的に多い時代、多様性の「た」の字もない世の中で、
将来アロマンティック・アセクシャルと自認する園児の筆者はどのように生活していたのでしょうか。
では思い返してみたいと思います。
幼稚園の頃の筆者=変わった子供
自身をアロマンティック・アセクシャルと自認するまでの、長い旅路のスタートラインみたいなものです。
カテゴリー体験談一覧では、名前の通りアロマンティック・アセクシャルと出会うまでの体験記のような扱いですが、
いくら将来のアロマンティック・アセクシャルであり、生まれた時からアロマンティック・アセクシャルだったような気がすると言っていても、さすがに子供の頃は・・・

私、人を好きになったことがない!?なんで?・・・なんて思ったことはありません。
深く記憶を思い返したうえで、大人になったアロマンティック・アセクシャル自認後の筆者があえて言うのであれば、
「幾許の違和感があったような気がするが、疑問として認識するには到底たどり着けていない。」といった感じになると思います。
では違和感を語る前に、筆者がどのような幼稚園児だったか簡単に説明します。
筆者は少し?とても?変わったお子様

幼稚園から小学校くらいまでの筆者ですが、少しで済むのかな?と疑問に思うくらい、筆者は変わったお子様だった気がしてなりません。
筆者が幼稚園の頃はLGBT関連同様、こどもの発達関連の話題もあまり認知されておらず、
「少し変わった子、成長すれば落ち着くだろう。そのはずだ・・・」のように当時は認識されていたと思います。
これはアロマンティック・アセクシャルの話と因果関係があるかわからないので、書こうかどうか迷うところなのですが、
筆者という人間が出来上がる過程の話なので、参考程度に書きたいと思います。

どうまろやかに言うか難しいですが、筆者、あからさまではないものの、グレーンな位置に立っていたような気がします。
※筆者が勝手に思っているだけで、診断を受けた訳でも、筆者が診断できるような資格を持っている訳ではありません。
資格は持っていないのですが、大人の筆者の目から見ると、どうも幼少期の筆者の行動や考え方は若干極端というか、周囲の子供とずれているというか・・・
思い出してみて、また家族から幼少期の話を聞いてみたことを思い返して、もしかして、そうだったのかな?と思っています。
(今もそれを少し感じる時はありますが、大人の筆者は大分世間一般の考え方に寄せられるようになったと思います)
変わってる?① 子供でも読む空気が読めない
子供ゆえ、空気が読めずに場にそぐわない発言や態度をしてしまうのは仕方ないことだと思います。
言ってはいけないことを言ってしまう、といった自分の発言・態度が引き起こす未来を想像できないのは、
未熟さや経験の無さ、もしくは自身が傷ついたことがない等、子供ゆえの原因かと考えます。

しかし筆者の場合、少し違うような気がするのです。
幼稚園児の筆者が未熟ではないと言っているわけではありませんよ(念のため)。では、何が違うのかと言うと・・・
- どちらかと言わず、しっかり話は聞いているのです。聞いていなかったから変なことを言ってしまったとは異なるのです。
- しっかり話を聞いたうえで、それに対する正解と思われる回答をしっかり考えたうえで発言しているのです。
- 自分の発言で周囲がどんな雰囲気になるか、傷つかないか等、しっかり考えたうえで言葉を発しているつもりなのです。
筆者自身は空気をしっかり読んだつもりで発言しているのですが「あれ?なんかおかしいぞ?」となる事が複数回。
なんか周りがシーン・・・となるみたいな。
具体的な例を思い出せないのですが、変な感じになって気まずくなって嫌だった、恥ずかしかったという記憶が今でも残っています。
そして、これが他の園児は空気が読めているのに、筆者だけ空気が読めていなかった、と思い出されるのです。

この感覚が嫌で嫌で一生懸命軌道修正した結果、大人の筆者は変な空気を「なるべく」作らないようになれました。(なれたはず。)
変わってる?② 集中すると周りが見えなくなる
これは一つ具体例を覚えています。
恥ずかしくて、でもなんで先生も周りの子たちも教えてくれなかったのかと怒りも覚えたので、今でも覚えています。
(具体例を覚えていて考察できると、余計そちらだったのかしら?と考えてしまいます。)
少し話は編集しますが、こんな流れです。
- 幼稚園で筆者が折り紙をしてる。
- めっちゃ楽し~どんどん作ろう!!
- 作るぞ~作っているぞ~楽し~な~
- ・・・?(なにか違和感)周囲を見る筆者。
- !!!なんで皆こっち見てるの?え?なんで皆さん机なおしているの?なんで筆者だけなおしていないの?
- 下を向きながら無言でお片付けをする筆者。先生はその後、何もなかったように進めていった気がします。

いやー!!思い出すたびに、悲しくなる・辛い・恥ずかしい・・・
集中すると、没頭しすぎて人の声やら指示やら何も聞こえなくなるようでした。
多分、先生も周囲の学友も声はかけてくれたのでしょうが、筆者が無視するかたちになっていたと察します。
周囲と比べて、好きなことをしている時の集中・没頭・没入が、少し極端だったと思っています。
変わってる?③ 仲の良い子への執着が恐ろしい
筆者は変わった?お子様を謳歌しておりましたが、これが一番長く引き摺った性質で、自分でも嫌だと思った性質と認識しています。

大人になった自分が思い返してみて引くくらい、なんで?と未だに思います。

何かと言いますと、仲が良い子への執着です。
幼いながらも、なんでこんな風に思ってしまうのだろう、こう思ってしまうのは辛いことだ、と認識していた記憶があります。
しかし、恐ろしいほどの執着の塊で、その執着を止めることができないのです。執着具合はこんな感じです。
- 自分と一番仲良くしてくれないと嫌・機嫌が悪くなる・私はあなたを一番に優先しているのになぜとイライラする
- 他の子と仲良くしているのを見るのは嫌・機嫌が悪くなる・私はあなたを一番に優先しているのになぜとイライラする
- 自分がその子の一番ではないと嫌・機嫌が悪くなる・私はあなたを一番に優先しているのになぜとイライラする
自分がないがしろにされていると感じて嫌なのか、二番手以降は嫌だったのか、自身のことながら原因や理由が未だにわかりませんが、
「私が一番仲が良いはずなのに、なぜ私を最優先しないのか?」という苛立ちをよく覚えていました。
でも、これは自分が変だよな・・・と先に書いた通り、幼いながらに一応わかっているのですが、嫉妬?独占欲?究極のかまってちゃん?
この変な執着は成長こそすれど、自身で止められるものでもなく、小学校入学後もうしばらく続いていました。
幼稚園児の筆者は恋愛や性自認の悩みはあったのか?

良くも悪くも、周りがあまり見えていない、空気があまり読めない子で、極端なお子様だった筆者ですが、、、

「私、人を好きになったことがない。」なんて、悩んではおりませんでした。
これは「子供だから」で全て説明できるし、それで良いと思います。
逆に、この時分から「他者に対して恋愛感情を抱いたことがない、どういうことだろう?」と悩んでいたら驚きです。
幼稚園生の恋愛事情とは?
おませな子は幼稚園の頃ともなると、〇〇君が好き~○○君が彼氏~とか言う子もいるのではないでしょうか。
早速、結婚相手を決めている子も時々見かけることもありますね。
本当に好きかどうか理解している?はさておき(この頃の好き云々に好きってわかってる?と疑問を投げかけるのも大人気ないですね)、筆者ですが、幼稚園の頃の自身をできる限り思い返してみると、

マイメンは○○君や○○ちゃん、〇〇ちゃん。以上!!
○○君が好き~とかはなかったと思っています。記憶がありません。誰かを好きになるという感情は抱いたことはない、と思っています。
ただし、幼稚園生と言っても「好きになる子は異性である男の子であろう」という異性愛に対して、疑問は持っていませんでした。
同性である女の子に対して向ける「好き」は「仲がよい友達としての好き」、つまり「友愛」だったかと思います。
そして、幼稚園の先生は全員女性(時代的にも男性は大変珍しかったかも)だったと思うので、年上の男性に対して、淡い恋心を抱くこともありませんでした。
「〇〇君が好き~好きかも~」という恋愛事よりは、おままごとやりたい!私主役!!絵を描きたい!邪魔しないでね!!しか頭にはなかったと思います。
恋愛の話題よりは、自分のやりたいこと・好きなことを邪魔されずに好きなだけしたい・それ以外は興味がない、という感情が大いに勝っていたと思います。
子供だから、まだ好きとかわからないだけだよ、と言ったら、もちろんそうです。
筆者みたいに、自分のやりたいことにしか興味がない子は、他にもまだまだいると思います。
アロマンティック・アセクシャル自認後に、改めて自身を振り返ったら、こんな感じの子供だったというくらいの話です。

アロマンティック・アセクシャルとして生まれたと思っていますが、幼少期の自身の言動をセクシャリティーとこじつけるつもりはありません。
最初の方に「幾許の違和感があった」と書きました。
今の筆者が昔を顧みた結果、その当時の筆者がうっすら持っていた周囲との心・感覚のズレを「なんと名前をつけたらよいかわからないが、違和感と表現した」と言う方が適切かもしれません。
幾許の違和感=周囲との心・感覚のズレ
- なんか好きにな子いるって言っている子がいるけど、それが普通?私は違うけど。
- それより楽しいこと、絵をかいたり、おままごとした方がどう考えたって楽しくない?
- 好き?なにそれ、私は興味はない。
言葉にするのは少し難しく、また幼稚園の頃の筆者がこのように言葉にできたのか?と言えば、できなかったのだろうと思います。
ただ、現在の筆者が幼稚園の頃の「幾許の違和感=周囲との心・感覚のズレ」を言語化したなら、こんな感じになるのかと思いました。
性自認=私は女の子です、違和感はありません
性自認(=こころの性)に関する悩みも、またありませんでした。
この事柄については、好きになったことがない等、悩み事があったとしても、今までの人生の中では悩んだことがありません。
可愛い系が好きな子供で普通に女の子をしていました。ボク自分のことを男の子だと思うけど、なんで制服がスカートなんだろう。。。この方向性での悩みは筆者にはありません。

体も心も女の子であることに、幼少期の筆者は違和感を覚えたことはありません。
まとめ

幼稚園の頃は自分のやりたいことをしたい分するだけの子供でした。そして、仲の良い友人への執着が非常に強い子供でした。
筆者は極端だったのでしょうが、やりたいことをして仲の良い友達を独占したくなるのは、小さい子の行動としては、筆者だけの行動ではないと思います。
多少なりと同世代の周りの子と感覚・行動が筆者は異なっていたかもしれませんが、
「私、人を好きになったことがない。。。え?おかしくない?困った、どうしよう?」とは悩んだことはありません。

別段大きな悩みなく、幼稚園児を謳歌していました。
大人になった自身があえて顧みるのなら「好きな子がいる」・「気になる子がいる」という話題に一切の興味を持たず、それより絵を描いていた方が楽しいよね?という考え方の持ち主であったと。
子供ならある話であると言いながら、このような考え方を持っていたことについては、幾許の違和感=周囲との心・感覚のズレがあったかな?あったかもしれない?と、大人の筆者は思うことがあります。
幼稚園時代の筆者は、変わっているところは大いにありましたが、まだまだ子供。
悩みもない、もしくは何も知らずに過ごしておりました。

続きの記事では、幼稚園の頃の性質を色濃く引き継いだ、小学生の頃の筆者の言動・考えについて書いてまいります。